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久兵衛池
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[[ファイル:瑞泉苑の久兵衛池2019.jpg|thumb|現在の久兵衛池。平成31年(2019年)4月撮影。]] '''久兵衛池'''(きゅうべえいけ)は、[[上田喜三郎]](王仁三郎)の生家の西南隅にあった潅漑用の池。現在も[[瑞泉苑]]の中に残っている。 上田家の先祖はもともと「藤原」姓で、「上田」姓を名乗った初代が上田久兵衛という<ref>「本教創世記」の記述によって代を数えると、久兵衛─政五郎─吉松(初代)─吉松(二代)─吉松(三代。旧名・佐野梅吉)─喜三郎ということになり、久兵衛を初代として6代目が喜三郎ということになる。</ref>。この久兵衛の時代に掘られたので久兵衛池と呼ばれるようになった。 == 久兵衛池事件 == 久兵衛池事件は王仁三郎の自叙伝「[[本教創世記]]」の第1章末尾に「追記」として記されている。 この池は敷地の坤の方位にあるため、裏鬼門の祟りで、上田家の女が七人、溺れて死んだ。上田家以外も溺死した村人が何人もいる。喜三郎自身も明治10年(1877年)の夏、7歳の時に池に落ち溺れそうになったところを祖母・[[宇能]]に助けられた。 明治20年(1887年)春、喜三郎(そのとき満15歳、数え17歳)の弟・幸吉が池に落ちて溺死しそうになった。そこで父・吉松は池を埋める決心をした。上田久兵衛の時代には所有地が1万5千坪もあったが、祖父の代に零落し、父の代には183坪の宅地と31坪の田しか無かったため、久兵衛池の必要が無くなっていたのである。 そこへ[[寺西文助]]という者が来て、この池は村の池だからと上田家の自由にしてはいけないと反対した。吉松は怒って、わが所有地にある池だと跳ね付けた。すると文助は10人ばかりと同盟し、吉松を脅迫しようと、村会議員や地主などに運動して、吉松の無学と貧乏に付け込んで攻撃を始めた。 当時喜三郎は、上田家の南隣の[[斎藤源治]]という大地主の家に、15歳の冬から丁稚奉公していた。喜三郎は斎藤家に村の大地主や議員、反対者が鳩首して吉松を攻撃する協議をしているのを隣室で聞いて憤った。小作地を取り上げたり、借金を取り立てたり、喜三郎をクビにしたりして吉松を困らせてやろうというのである。主人の源治がやって来て、喜三郎の方から吉松を説得してくれと頼む。喜三郎は断然反対の態度を取り、実家に帰った。すると父母が声を挙げて泣いている。村人たちがすでに「田を返せ、金を返せ」と迫ったのだった。喜三郎は「神の佑助を仰いで正邪を明らかにします」と父母を慰め、亀岡の伯母の家に向かった。事情を聞いた伯父や伯母も激昂し、万一の時には引き受けると、声援を送った。喜三郎は百万の援兵を得た気持ちで帰宅した。 翌日、久兵衛池の件で村中の総集会が開かれ、喜三郎は父の代理として出席すると、120余戸の戸主が残らず集まっていた。敵ばかりの中<ref>いじめの中心は富豪や議員など村の支配層であって、小作人などは吉松に同情を寄せていたが、支配層には逆らえなかった。</ref>、喜三郎は一言も淀みなく正義を以て立て通したので、彼らもついに適し難しを知り、上田家に年々報酬を出すので池を貸してくれないか、ということになり、喜三郎は毎年玄米1斗5升(22.5kg)ずつ<ref>1軒ごとに1斗5升だと思われる。</ref>で貸すことにし、契約書を取って一件落着となった。 王仁三郎は〈余はここにおいて、神力の高きを覚ると共に、ますます下等貧賤の人民の境遇の惨澹たる生活を知り、ますます救世的の大決心を定めたのである。本作は、余が従道の志をしてますます強剛ならしめたのであるから、記しておく次第である〉と述べている。 * 『[[出口王仁三郎著作集]] 第一巻』所収{{obc|B195301c07|「本教創世記」第一章}} - 霊界物語ネット * [[タダアイ事件]]:久兵衛池事件と同様に王仁三郎の幼少時の義侠心を物語るエピソード。 == 久兵衛池の整備 == 昭和8年(1933年)夏、久兵衛池の周囲に石垣をめぐらし、従来の6倍の広さに池を拡大した。そして11月2日に[[玉水殿]]の斧始式を行い、このときから穴太の[[玉の井]](久兵衛池)の名称を「[[瑞泉苑]]」と呼ぶことになった。〔『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c5422|神苑の造営と祭事}}」〕 == 脚注 == <references/> {{デフォルトソート:きゆうへえいけ}} [[Category:湖沼]] [[Category:瑞泉苑]]
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