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久兵衛池事件
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'''久兵衛池事件'''(きゅうべえいけじけん)とは、[[出口王仁三郎]]が10代の時に体験した村八分事件。灌漑池の埋め立てをめぐって上田家と村人たちが対立した。 == 概要 == 久兵衛池事件は王仁三郎の自叙伝「[[本教創世記]]」の第1章末尾に「追記」として記されている。 上田喜三郎(王仁三郎の幼名)の生家(現・[[瑞泉苑]])に久兵衛池と呼ぶ灌漑用の池がある。上田家の先祖は「藤原」姓で、「上田」姓を名乗った初代が上田久兵衛という<ref>「本教創世記」の記述によって代を数えると、久兵衛─政五郎─吉松(初代)─吉松(二代)─吉松(三代。旧名・佐野梅吉)─喜三郎ということになり、久兵衛から6代目が喜三郎ということになる。</ref>。この久兵衛の時代に掘られた池が久兵衛池である。敷地の坤(裏鬼門)の方角にあり、この池で溺れて死ぬ者が大勢いた。喜三郎も池に落ちたことがある。 明治20年(1887年)春、喜三郎(そのとき満15歳、数え17歳)の弟・幸吉が池に落ちて溺死しそうになった。そこで父・吉松は池を埋める決心をした。 すると村人が「この池は村内の池だから自由にしてはいけない」と埋め立てに反対した。吉松は反発したが、村人たちは村議や地主などを動員して、吉松を攻撃した。 その頃、喜三郎は隣家の富豪・[[斎藤源治]]家で丁稚奉公をしていた。斎藤邸に大地主や村議など反対派が集まり、吉松攻撃の話し合いをした。喜三郎はこっそり聞いていると、吉松が逆らうようなら小作地を取り上げてしまえと話している。もし吉松に借金があるようなら厳しく督促して泣かしてやろうとも言っている。吉松が文盲・貧乏であることにつけ込んで弱者いじめをたくらむ村人たちに喜三郎は憤慨し、斎藤家の奉公を辞して実家に帰った。 喜三郎は村の集会に父の代理として出席し、神佑を楯として一言も淀みなく正義を立て通した。村人たち<ref>いじめの中心は富豪や議員など村の支配層であって、小作人などは吉松に同情を寄せていたが、支配層には逆らえなかった。</ref>もついに「年々報酬を出すことにして池を借りるわけにはいかないか」と弱音を吐き出した。喜三郎は、毎年玄米1斗5升(22.5kg)ずつ<ref>1軒ごとに1斗5升だと思われる。</ref>で貸与することにして、一件落着させた。 王仁三郎は〈余はここにおいて、神力の高きを覚ると共に、ますます下等貧賤の人民の境遇の惨澹たる生活を知り、ますます救世的の大決心を定めたのである。本作は、余が従道の志をしてますます強剛ならしめたのであるから、記しておく次第である〉と述べている。 == 関連項目 == * [[タダアイ事件]] * [[瑞泉苑]] * [[穴太]] == 脚注 == <references/> {{デフォルトソート:きゆうへえいけしけん}} [[Category:出来事]] [[Category:瑞泉苑]]
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