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出口大二

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* 翌月5月17日、兌三は綾部に移住して大本入りをする。六合大(くにひろ)を継ぐという意味で、王仁三郎によって大二(ひろつぐ)と名付けられた<ref>『いり豆の花』669頁下段。</ref>。
* 同年9月26日、正式に王仁三郎の養子となる。
* 大正10年(1921年)10月13日(旧9月13日)、大正10年(1921年)10月14日(旧9月14日)<ref>10月11日に当局から本宮山神殿取毀命令を受け、14日にその責任を取って[[第一次大本事件大日本修斎会]]の責任を取る形で王仁三郎・澄子らは役職を下り、代わりに直日が教主に、大二が教主補に就任する。幹部役員は総辞職をしている。</ref>、[[王仁三郎]]と[[澄子]]は隠退し、[[直日]]が教主に、大二が教主補に就任する。<ref>『[[神の国 (1921)]]』大正10年(1921年)11月号「大本内部の消息」74頁:「▲十月十三日、今回の本宮山取毀事件に関して修斎会幹部役員一同引責総辞職をなすことに決定した。▲十月十四日、大先生、二代様は今回御隠退され三代様若先生は教主並に教主輔となられた。」(注「輔」は底本通り)</ref> <ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c3233|本宮山神殿破壊}}」:「一〇月一三日、修斎会の役員、幹部は責任をとって総辞職し、翌一四日には、二代教主すみ子・教主輔王仁三郎は引退のやむなきにいたった。こうして、三代教主直日・教主補大二がそのあとを継承することになった。」</ref> <ref>「[[大本年表]]」:10月13日の項「本宮山神殿取毀事件に対し、修斎会役員総辞職。」、10月14日の項「聖師、二代教主隠退し、直日、教主に就任。」</ref>
* 大正12年(1923年)6月18日(旧5月5日)、直日と大二は結婚式を挙げる。<ref>「[[大本年表]]」、『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c4224|新機運の動向}}」706頁</ref>
* しかし半年後の同年12月16日、王仁三郎は二人の結婚生活の破局を発表。

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