冠島沓島 (おしまめしま)

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
沓島 (めしま)から転送)
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この項目では、現実の冠島沓島について説明しています。その他の用法については「冠島沓島 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

冠島沓島(おしま めしま)は、若狭湾の冠島(おしま)と沓島(めしま)という二つの無人島のこと。沓島には国祖の神霊が、冠島にはその部下の神々が退隠されており、明治33年(1900年)に「冠島開き」「沓島開き」が行われた。

行政上は京都府舞鶴市に区分される。港から行くと冠島が手前(南)にあり、奥(北)に沓島がある。両島とも海鳥の繁殖地で、京都府の鳥獣保護区に指定されている[1]

冠島

  • 「大島」「雄島」「男島」とも呼ばれる。
  • 南北の長さ約1350メートル、東西の長さ約550メートル。標高約170メートル。
  • 沓島とは約2500メートルほど離れている。
  • オオミズナギドリの繁殖地として大正13年(1924年)に島が国の天然記念物に指定されている[2]
  • 老人島神社がある。

沓島

  • 「小島」「雌島」「女島」とも呼ばれる。
  • 南北の長さ約650メートル、東西の長さ約160メートル。標高約90メートル。
  • 北側の釣鐘島釣鐘岩)と、南側の棒島の二つの島から成る。

主な出来事

冠島開き・沓島開き

明治33年(1900年)7月4日(旧6月8日)に出口直王仁三郎を始め一行5人で「冠島開き」が、8月2日(旧7月8日)に一行9人で「沓島開き」が行われた。→詳細は「冠島開き沓島開き」を見よ

怒濤に遭う

8月22日(旧7月28日)、王仁三郎を始め一行21人で冠島・沓島参拝に出る。これには王仁三郎反対派の隠謀が秘められいた。しかし冠島には行けたが強風のため沓島には行けず、反対派の隠謀は失敗に終わった。

 上田会長をともなっての開祖の冠島・沓島開きは、会長排斥をつづけていた役員たちに、かなりの衝撃をあたえた。かれらは、冠島まいりはできても、沓島開きはきっと中途から引きかえしてくるに相違ないと、たかをくくっていたのである。そこで、老人や若い娘の行けるところへ自分らが行けぬはずはないと力みだし、むりやりに会長に案内をたのんだ。会長はじぶんを攻撃するたくらみのあることを察してはいたが、ことわるのは卑怯だとおもい、神の加護を祈って、八月二二日(旧七月二八日)、中村竹蔵ら二一人で冠島・沓島の参拝にでかけた。出発にあたり、開祖は会長にたいして、今度の参拝はよく神様にお願いして参拝するよう、万一の場合にはと密封した筆先を授けた。舟が冠島に近づいたころ疾風にあい、四艘の小舟は木の葉のようにもてあそばれ、一同は顔色を失ったが、会長は舟舷に立って一同をいましめた。そして日の丸の扇を開いて祈願すると、浪風が静まり、無事冠島へ到着することができた(『玉の礎』)。しかし、ついに沓島にはまいることができなかった。帰路は二艘ずつ舟を組み合わせ、荒浪を乗り切って帰ってきた。しかし、この日は陸上も強風であったので、開祖はその行路を心配して、四方平蔵・四方春三を舞鶴まで迎えにだし、綾部では一同が祈願していた。会長はこのとき鎮魂の神法で風を静めた(『霊界物語』)といっており、役員の中には、御幣が天から降ってくるのをみたといって、改心を誓う者もでてきて、会長攻撃をたくらんでいた事前の計画は失敗に帰した。
出典:『大本七十年史 上巻』「会長排斥と内部の対立#

沓島篭もり

明治38年(1905年)5月、出口直は沓島篭もりを行う。これは直にとって最後の出修であった。

5月14日(旧4月10日)、後野市太郎大槻伝吉(どちらも20代)の2人の供だけを連れて綾部を出発。舞鶴の大丹生屋で船を雇った。

15日午前8時頃、冠島に到着し、老人島神社に参拝した後、沓島に渡る。その時の携帯品はわずかなもので水や食糧もほとんどなかった。

直は船頭に「二十日たってから迎えに来てもらいたい。もしその時姿が見えなかったら、さらに二十日して迎えに来て欲しい」と話した。船頭は、島には水が無いので一夜も寝ることは出来ない、と止めさせようとしたが、直は「神様が四十日とおっしゃるから、どうしても四十日はおらねばならん」と言った。

直は毎日、禊をしては祈願を凝らし筆先を書いた。供の二人は薪を集め暖を取るくらいしか仕事がなかった。後野は岩の間から清水が滴っているのを発見し、直に報告すると、直は神様からいただいたのであるとお礼の祝詞を奏上した。

沓島に上陸して十日目、直は空腹で苦しんでいる二人を憐れに思い、「自分一人なら十分の行もさせてもらえるが、しかし神様はほぼ御用も済んだようにおっしゃられる。皆で帰らしていただくようお願いをしよう」と、三人で祈願を凝らした。するとにわかに大風雨となった。祝詞が終わる頃、直は「ご苦労」と叫んだ。すると間もなく風雨が止んだ。そのとき竜宮の乙姫が現れたとのことであった。

翌朝、若芽取りに来た船が数隻来ており、漁師に頼んで翌5月25日、船に乗って舞鶴へ戻り、その日の夕刻帰綾した。

その二日後の5月27日、日本海海戦があり、ロシアのバルチック艦隊は全滅して日本の勝利となった。

〔参考文献:『大本七十年史 上巻』「4 沓島ごもり#」〕

冠島沓島が禁猟区になる

明治42年(1909年)出口直は冠島沓島の鳥の密猟が横行するのを惜しみ、鳥族保護の祈願を行ったが、その満願の日に神明に謝礼のため、王仁三郎に種々の供物を持たせ冠島沓島に渡らせた。

6月21日、王仁三郎梅田柳月大槻伝吉の3人は舞鶴へ行く。天候が良くなるのを待ち、22日午前2時になって船で冠島沓島へ向かう。冠島には5時55分に到着した。いつもは10~12時間かかるが今回はわずか4時間足らずで着いた。この日(6月22日)は冠島の老人島神社の年に一度の祭典で、前日から数名の氏子が社務所に出入りして境内の掃除をしていた。参拝した後、沓島に向かう。

沓島に着くと、密猟者がおり、王仁三郎は密漁を止めるよう諫めるが、密猟者は開き直る。しかし不思議なことにこの日、京都府告示第319号により、冠島沓島は禁猟区となり、今後10年間は鳥や卵の採取が禁止となった。

神祠で祝詞を奏上し、帰路に着いた。

〔参考文献:霊界物語第38巻第16章禁猟区#

年表

明治33年(1900年)
7月4日(旧6月8日):「冠島開き」が行われる。→「冠島開き沓島開き」を見よ
8月2日(旧7月8日):「沓島開き」が行われる。→「冠島開き沓島開き」を見よ
8月22日(旧7月28日):
明治34年(1901年)
5月4日(旧3月16日):元伊勢の水竜宮海(沓島と冠島の間の海域)に注ぐ。→「元伊勢お水の御用」を見よ
7月25日(旧6月10日):一行68人で沓島詣り。
明治38年(1905年)
5月14日~25日:出口直は沓島に篭もる。
明治40年(1907年)
2月5日(旧12月23日):節分 神様沓島より弥仙山へお上りとして参拝。
明治42年(1909年)
6月21日(旧5月4日):王仁三郎ら3人は、沓島に渡る。翌22日、冠島沓島は禁猟区となる。
大正3年(1914年)
6月21日(旧5月28日):王仁三郎ら一行61名で冠島、沓島を参拝。
大正5年(1916年)
8月6日(旧7月8日):王仁三郎、直日ら一行47名で沓島参拝。しかし海上が突然荒れ、途中で遙拝式を行い帰綾する。
大正6年(1917年)
9月24日(旧8月9日):金竜海に沓島冠島の神霊を鎮祭する。
大正7年(1918年)
8月26日(旧7月20日):沓島冠島開きに使用した船を橋本六蔵、田中岩吉から献納される。
大正8年(1919年)
6月6日(旧5月9日):王仁三郎ら沓島冠島参拝。
大正9年(1920年)
6月23日(旧5月8日):王仁三郎、澄子ら700余名で沓島冠島参拝。
大正10年(1921年)
6月13日(旧5月8日):澄子ら368名で沓島冠島参拝。

(以下省略 毎年6月に冠島沓島に参拝または国見山からの遙拝が行われている)

〔参考文献:『大本年表』〕

呼び方

「男女」と慣用的に男を先に呼ぶように冠島(雄島)が先で沓島(雌島)を後にし「冠島沓島」と呼ぶ場合が多い。ただし「沓島冠島」の順で呼ぶ場合もある。これは、国祖の神霊が隠退されていた沓島の方が重要であるため、先にしているのではないかと思われる。 [3]

籠神社の奥宮

大本七十年史』に、元伊勢籠神社の海部宮司の話として「男島・女島は吉佐の宮の奥宮であり、祭神は国常立尊であるという」と書かれている[4]。吉佐の宮(よさのみや)とは天照大神の鎮座地の一つで、現在の籠神社のこと。

霊界物語における冠島沓島

自叙伝の第38巻第13~16章で冠島沓島に関するエピソードが記されている。

  • 第13章冠島#:明治33年(1900年)7月4日の冠島開きの話題。
  • 第14章沓島#:同年8月2日の沓島開きの話題。
  • 第15章怒濤#:同年8月22日に冠島沓島に向かうが怒濤に遭った話題。
  • 第16章禁猟区#:明治42年(1909年)6月21日に鳥族保護祈願謝礼のため冠島沓島に渡り、22日に両島が禁猟区になった話題。

→太古の自転倒島の冠島(かむりじま)沓島(くつじま)に関しては「冠島沓島 (かむりじまくつじま)」を見よ

脚注

  1. 冠島沓島鳥獣保護区
  2. 京都府の天然記念物
  3. 霊界物語の中で「冠島沓島」の順で呼ばれるているのは23回あるのに対し「沓島冠島」は3回しかない。大本神諭では逆に「冠島沓島」は0回で「沓島冠島」が7回である。
  4. 大本七十年史 上巻』「冠島と沓島#

関連項目

外部リンク