「霊界物語」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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(概要)
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* 王仁三郎は口述開始の時に筆録者の一人の桜井重雄に「三界通覧」という書名にしようかと言っていたが、最終的には「霊界物語」になった<ref>木庭次守・編『霊界物語大辞典 総索引その1』p42:「出口聖師は口述開始の時に筆録者の一人の桜井重雄氏に「三界通覧」としょうかといわれていたが、「霊界物語」とさだめられた」</ref>。
 
* 王仁三郎は口述開始の時に筆録者の一人の桜井重雄に「三界通覧」という書名にしようかと言っていたが、最終的には「霊界物語」になった<ref>木庭次守・編『霊界物語大辞典 総索引その1』p42:「出口聖師は口述開始の時に筆録者の一人の桜井重雄氏に「三界通覧」としょうかといわれていたが、「霊界物語」とさだめられた」</ref>。
 
* 霊界物語の「霊界」とは「霊妙な世界」の意味であり、顕界(現界)・幽界(地獄界)・神界(天界)の三界の総称である<ref>『水鏡』所収「霊界と神霊界」</ref>。
 
* 霊界物語の「霊界」とは「霊妙な世界」の意味であり、顕界(現界)・幽界(地獄界)・神界(天界)の三界の総称である<ref>『水鏡』所収「霊界と神霊界」</ref>。
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* 「ただ私は神示のまま、工作して口述するばかりであります」〔{{rm09|5|0001|序文}}〕
  
 
== 著述の動機 ==
 
== 著述の動機 ==

2020年3月20日 (金) 00:34時点における版

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霊界物語(れいかいものがたり)とは、出口王仁三郎が書いた全81巻から成る書物のこと。大本二大教典の一つ。

概要

  • 著述は基本的に王仁三郎が口述し、30数名の筆録者が書記した。一部、王仁三郎が直接書記した部分もある。→ 筆録者
  • 大正10年(1921年)から15年にかけて72巻が、昭和8年(1933年)から9年にかけて9巻(天祥地瑞)が書かれた。
  • 第64巻が上・下の2冊に分かれており、他に番外編として「入蒙記」が1冊入っているため、巻数としては第81巻までしかないが、冊数は83冊あるため「81巻83冊」と呼ばれる。
  • 当初は全部で120巻になる予定だった[1]。また最初は神命で360字詰め原稿用紙400枚を1巻とし、36巻を1集として48集つまり1728巻書けと命じられたが、それではあまりにも長すぎるので神様にお願いして120巻にしてもらった[2]
  • 王仁三郎は口述開始の時に筆録者の一人の桜井重雄に「三界通覧」という書名にしようかと言っていたが、最終的には「霊界物語」になった[3]
  • 霊界物語の「霊界」とは「霊妙な世界」の意味であり、顕界(現界)・幽界(地獄界)・神界(天界)の三界の総称である[4]
  • 「ただ私は神示のまま、工作して口述するばかりであります」〔第5巻序文#

著述の動機

第2巻「序」[5]によると──大正10年(1921年)旧9月8日(新10月8日)王仁三郎に神命が降り、明治31年如月(旧2月)に神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよという神教に接したため、24年間胸中に蓄蔵していた霊界の物語を発表する決心を定めた。

しかし王仁三郎は春以来、目を病み、頭痛がして、執筆しようとすると、たちまち目と頭に痛苦を覚えるという状態であり、着手できなかった。十日後の旧9月18日(新10月18日)朝、神教があり(天津神の神示と開祖神霊の請求があった[6])、神は口を借りて口述するから、外山豊二加藤明子桜井重雄谷口正治の4人に筆録させよということだった。

そこで意を決し、松雲閣で神示を口伝えすることになった。

霊界物語は12巻ずつ一括りになっており、「輯(しゅう)」と呼ぶ[7]。それぞれ輯の題名が付けられており、1巻ごとに十二支の名前が与えられている。たとえば第1巻は「霊主体従 子の巻」と呼ばれる。次のように計7輯から成る。

輯題 冊数
1 第1~12巻 霊主体従(れいしゅたいじゅう) 12冊
2 第13~24巻 如意宝珠(にょいほっしゅ) 12冊
3 第25~36巻 海洋万里(かいようばんり) 12冊
4 第37~48巻 舎身活躍(しゃしんかつやく) 12冊
5 第49~60巻 真善美愛(しんぜんびあい) 12冊
6 第61~72巻 山河草木(さんかそうもく) 14冊(注)
7 第73~81巻 天祥地瑞(てんしょうちずい) 9冊
合計 83冊

(注)山河草木に巻外の特別篇として「入蒙記」が入っており、また第64巻が上・下の2冊あるので14冊になる。

山河草木の後は「千山万水(せんざんばんすい)」という輯題になる予定で第73巻と第74巻が口述された[8]。しかし第67巻が『王仁蒙古入記』と題して出版され、第71巻(現・第64巻下)が発禁となり2巻減ったため、第73・74巻は第71・72巻に改められ山河草木の中に収まった。

巻番号の変動

第66巻以降は、口述時の巻番号と出版時の巻番号に変動がある。これは第71巻(現・第64巻下)が発禁になったため巻番号を再編成したと思われる。

また、奥付の日付と、実際の発行日に大きな隔たりがある巻がある。これは印刷等の出版作業が遅れ気味だったため、計画当初の組版のまま印刷したのだと考えれば理解できる。

口述年月 口述時の巻番号 → 初版の巻番号 初版発行の順序(丸数字)と年月 現在の巻番号
大正12年5月 第61巻 → 第61巻(子) ②大正14年10月16日 第61巻
大正12年5月 第62巻 → 第62巻(丑) ④大正15年1月(奥付は大正14年10月16日)[注A 1] 第62巻
大正12年5月 第63巻 → 第63巻(寅) ⑤大正15年2月 第63巻
大正12年7月 第64巻 → 第64巻(卯) ②大正14年10月16日[注A 2] 第64巻上
大正12年7月 第65巻 → 第65巻(辰) ⑥大正15年4月[注A 3] 第65巻
大正13年1月[注A 4] 第66巻 → 第69巻(申) ⑩昭和2年10月 第69巻
大正13年12月 第67巻 → 王仁蒙古入記 ①大正14年2月 -
大正13年12月 第68巻 → 第66巻(巳) ⑦大正15年6月 第66巻
大正13年12月 第69巻 → 第67巻(午) ⑧大正15年8月 第67巻
大正14年1月 第70巻 → 第68巻(未) ⑨大正15年9月 第68巻
大正14年8月15日 王仁蒙古入記を改訂して入蒙記 - 出口王仁三郎全集(第6巻)に収録して昭和10年に発行) 入蒙記
大正14年8月19~21日 第71巻 → 第71巻(戌) ③大正14年11月7日【11月6日に発禁】[注A 5] 第64巻下
大正14年8月23~25日 第72巻 → 第70巻(酉) ⑪昭和3年4月(奥付は大正14年10月16日)[注A 6] 第70巻
大正14年11月7日~15年2月 第73巻 → 第71巻(戌) ⑫昭和4年2月 第71巻
大正15年6月 第74巻 → 第72巻(亥) ⑬昭和4年4月 第72巻

【注A】

  1. 第62巻…『真如能光』大正15年(1926年)1月5日号「綾部だより」p46の12月31日の項に「霊界物語第六十二巻(山河草木丑の巻)出来」と記されている。
  2. 第64巻(現・第64巻上)…奥付は第61巻と同じく大正14年10月16日だが、『霊界物語資料篇』p307には大正13年4月5日発行と書いてある。
  3. 第65巻…奥付は大正15年4月14日だが、『霊界物語資料篇』p316には大正13年4月5日発行と書いてある。しかし『真如能光』大正15年(1926年)3月15日号「綾部だより」p48の3月9日の項に「霊界物語第二巻は目下再版中である、尚六十五巻も発行される事になりいづれも春季大祭(新四月十四日)迄には出来る予定です」と記されているので、『霊界物語資料篇』の記述は誤記である。
  4. 1月から12月まで長期間空いているが、蒙古に行ったためである。大正13年(1924年)2月に蒙古へ向けて旅立ち、7月に帰国、入監し、保釈されて帰綾したのは11月。
  5. 第71巻…11月6日午後2時に発行禁止と差押の命令が来た(『真如能光』第1号p86の告示、第2号p30による)。次の日には新たな第71巻となる第73巻の口述が開始されている。
  6. 第70巻…『真如能光』昭和3年(1928年)4月25日号「綾部だより」p31の4月17日の項に「霊界物語山河草木酉の巻(第七十巻)出来、納本す」と記されている。

通巻章番号の変動

巻番号が変動したため、通巻の章番号にも変動が生じている。当初は口述順で付けられた思われるが、第71巻(現・第64巻下)の発禁によって巻構成が再編成され、それに伴い通巻章番号も付け直されたのだと思われる。

第67巻(王仁蒙古入記入蒙記)と第71巻(現在の第64巻下)が巻構成から除外されたため、61章減っている(1892→1831)。

第67巻は『王仁蒙古入記』と題して出版された後も、霊界物語の巻として刊行する予定だったらしく[9]、それを前提に第71巻(現・第64巻下)は通巻章番号1807~1828が付けられて刊行されたのだと思われる。発禁となり、大戦後に第64巻下として発行されたが[10]、通巻章番号はそのままとしたため、1807~1828は他の巻(第71~72巻)と重複することとなった。

口述時の巻番号 章の数 口述順で付けた場合の通巻章番号 初版の巻番号 発行順 発行時の通巻章番号 現在の巻番号
第64巻 27 1630~1656 第64巻 1630~1656 第64巻上
第65巻 26 1657~1682 第65巻 1657~1682 第65巻
第66巻 22 1683~1704 第69巻 1746~1767 第69巻
第67巻 39 1705~1743 王仁蒙古入記 なし -
第68巻 20 1744~1763 第66巻 1683~1702 第66巻
第69巻 22 1764~1785 第67巻 1703~1724 第67巻
第70巻 21 1786~1806 第68巻 1725~1745 第68巻
入蒙記 39 - - なし 入蒙記
第71巻 22 1807~1828 第71巻【発禁】 1807~1828 第64巻下
第72巻 22 1829~1850 第70巻 1768~1789 第70巻
第73巻 20 1851~1870 第71巻 1790~1809 第71巻
第74巻 22 1871~1892 第72巻 1810~1831 第72巻

篇と章の数

霊界物語の篇の総数は369、章の総数は2108ある。

ただし通巻の章番号は2047(第81巻第20章)までしかない。これは入蒙記(39章)には通巻章番号が振られておらず、また第64巻下の通巻章番号(1807~1828の22章)が他の巻と重複しているからである。そのため 2047+39+22=2108 となる。(重複理由については「#巻番号の変動」の項を参照)

第7巻までは50章ずつで、第8巻から章の数が減っているが、第8巻序文#に「総じてこの霊界物語は、口述の最初に当り五百六十七節にて完成する考へを以て、一冊を五十節に刻み全十二冊の予定のところ、到底是にてはその一部分をも講了すべからざるを覚り、本巻よりは一冊五十章組の規定を破り、口の車の行き突きばつたりに歩を進むる事と致しました」と記されている。

篇の数 章の数
第1巻 5 50
第2巻 7 50
第3巻 12 50
第4巻 9 50
第5巻 7 50
第6巻 8 50
第7巻 9 50
第8巻 6 43
第9巻 5 37
第10巻 3 37
第11巻 5 29
第12巻 4 30
第13巻 5 24
第14巻 4 17
第15巻 4 23
第16巻 3 21
第17巻 3 17
第18巻 5 17
第19巻 4 17
第20巻 3 12
第21巻 4 18
第22巻 5 20
第23巻 4 18
第24巻 4 16
第25巻 5 19
第26巻 4 17
第27巻 5 18
第28巻 4 22
第29巻 4 20
第30巻 5 24
第31巻 4 25
第32巻 4 24
第33巻 4 26
第34巻 3 23
第35巻 3 24
第36巻 4 24
第37巻 4 25
第38巻 5 28
第39巻 5 19
第40巻 4 20
第41巻 4 21
第42巻 5 26
第43巻 5 18
第44巻 3 21
第45巻 4 20
第46巻 4 23
第47巻 3 21
第48巻 4 20
第49巻 4 20
第50巻 4 21
第51巻 4 21
第52巻 5 27
第53巻 4 23
第54巻 5 22
第55巻 4 22
第56巻 4 20
第57巻 3 25
第58巻 4 25
第59巻 4 25
第60巻 5 25
第61巻 5 25
第62巻 6 32
第63巻 5 22
第64巻上 5 27
第64巻下 4 22
第65巻 5 26
第66巻 4 20
第67巻 4 22
第68巻 5 21
第69巻 4 22
第70巻 3 22
第71巻 3 20
第72巻 3 22
入蒙記 5 39
第73巻 3 37
第74巻 3 26
第75巻 4 23
第76巻 3 15
第77巻 4 24
第78巻 4 25
第79巻 3 23
第80巻 3 23
第81巻 4 20
合計 369 2108

筆録者

霊界物語の筆録者は計38人いる。 →詳細は「霊界物語の筆録者」を見よ

口述地

霊界物語を口述した場所は、主に次の場所がある。

第1~72巻

  1. 綾部・松雲閣祥雲閣
  2. 綾部・竜宮館
  3. 綾部・錦水亭
  4. 綾部・月光閣
  5. 亀岡・瑞祥閣
  6. 鳥取県・岩井温泉晃陽館駒屋
  7. 静岡県・湯ケ島温泉安藤春夫方)
  8. 鳥取県・皆生温泉浜屋旅館
  9. 伊予(山口恒彦邸)
  10. 丹後由良(秋田別荘
  11. 天の橋立(なかや旅館掬翠荘

第73~81巻天祥地瑞

  1. 亀岡・千歳庵
  2. 亀岡・高天閣
  3. 亀岡・水明閣
  4. 亀岡・更生館
  5. 大阪分院蒼雲閣
  6. 横浜・関東別院南風閣
  7. 静岡・伊豆別院(湯ケ島)

校正

ファイル:聖師御校正本第6巻トビラ.jpg
霊界物語第6巻の聖師御校正本のトビラ

霊界物語は短期間で急ピッチで著述と出版が行われ、王仁三郎による校正なしで出版されて行った。

昭和9年から10年にかけて、王仁三郎による霊界物語の校正が行われた。刊本にペン書きで校正したその原本を「聖師御校正本」(略して校正本)と呼ぶ。

校正作業は1つの巻に対して数回行われている場合もある。たとえば第6巻(昭和7年7月15日発行の三版を使用)の最初の校正は昭和9年4月9日、最後の校正は昭和10年2月17日である。

天祥地瑞は最初から校正された状態で出版されたため、校正本はない。また入蒙記出口王仁三郎全集に収録されたものを第二次大戦後に霊界物語に収録したので、やはり校正本はない。つまり第1巻から第72巻までの72冊の校正本があった。しかし昭和25年(1950年)12月31日午前2時半頃に天恩郷の本部事務所から出火して全焼し[11]、そこに保管してあった第1巻第2巻第27巻の校正本は焼失して現存していない[12]

諸本

霊界物語は今日までに数種類の刊本が出版されている。 →「霊界物語の諸本」を見よ

物語の内容

脚注

  1. 第1巻附記#
  2. 第37巻序#
  3. 木庭次守・編『霊界物語大辞典 総索引その1』p42:「出口聖師は口述開始の時に筆録者の一人の桜井重雄氏に「三界通覧」としょうかといわれていたが、「霊界物語」とさだめられた」
  4. 『水鏡』所収「霊界と神霊界」
  5. 第2巻序/a090-a113#
  6. 第73巻序文#:「顧みれば大正十年十月十八日(旧暦九月十八日)天津神の神示と開祖神霊の請求により
  7. 12巻ごとを「輯」と呼ぶことは霊界物語中の数ヶ所に記されている。【例】第50巻序文#:霊界物語第一巻より第十二巻までを第一とし改めて「霊主体従」と題し、第十三巻より第廿四巻迄を「如意宝珠」と題し、第廿五巻より第卅六巻までを第三とし「海洋万里」と題し、第卅七巻より第四十八巻迄を第四とし「舎身活躍」と題し、第五に当る「真善美愛」と題せる物語を」、第48巻第9章罪人橋#:「此語字については霊界物語第二第三巻(第十五巻)第一天国と云ふ所に」
  8. 第71巻序文#:「山河草木の続篇として、更に十二巻を千山万水と命名して口述することに致します」
  9. 校定版のあとがき(昭和45年)に「出口聖師の入蒙記録は(略)「王仁蒙古入記」として大正十四年二月十四日蚕都新聞社から出版されたものです。 その後、霊界物語第六十七巻として発行される予定でしたが」とある。
  10. 第64巻と合冊して発行せよと王仁三郎の指示があった。
  11. 大本七十年史 下巻』「梅花運動#
  12. 愛善世界社版霊界物語第1巻p300「凡例」

外部リンク