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熊野館

368 バイト追加, 2022年4月20日 (水) 13:44
脚注
[[ファイル:熊野館20080615.jpg|thumb|熊野館の玄関付近。平成20年(2008年)6月撮影。]]
[[ファイル:熊野館20070714.jpg|thumb|熊野館。平成19年(2007年)7月撮影。]]
 
'''熊野館'''(くまのやかた)は、亀岡の[[中矢田農園]]にあった[[王仁三郎]]の居宅のことで、王仁三郎が命名した。第二次大戦後、[[天恩郷]]が再建されるまでは、大本の活動の拠点になっていた。
 
現在は焼失して存在していない。
== 戦時中 ==
その頃、熊野館には[[出口直日]]一家が住んでおり、王仁三郎夫妻は[[有悲閣]]の二階に住むことになる。昭和18年6月、直日一家が但馬の竹田町に移転した後、熊野館に王仁三郎夫妻が移り住んだ。また三女の[[八重野]]・[[宇知麿]]一家も同居した。<ref name="daisanji_p46">[[出口和明]]『[[第三次大本事件の真相]]』p46-47</ref> <ref name="B195402c6432">『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6432|中矢田農園}}」</ref>
王仁三郎は移り住んだ時に、「実は未決(注・未決監)から出るのが一年早く、その間二階にいたが、三代(注・直日のこと)が空けてくれたので下におりることになった」と言い、そしてこの家を「熊野館」と命名した。王仁三郎は移り住んだ時に、「実は未決<ref>『おほもと』昭和44年(1969年)5月号、木庭次守「ミクマノの神業(上)」★要確認★『いづとみづ』昭和60年(1985年)1月号P25からの孫引きなので未決監</ref>から出るのが一年早く、その間二階にいたが、三代<ref>三代教主の出口直日のこと</ref>が空けてくれたので下におりることになった」<ref>『[[おほもと]]』昭和44年(1969年)5月号、[[木庭次守]]「ミクマノの神業(上)」p59、注記はオニペディア編者による。</ref>と言い、この家を「熊野館」と命名した。<ref>『[[いづとみづ]]』昭和60年(1985年)1月号P25</ref>
王仁三郎の指示により熊野館の建物や庭が拡張されて行った。庭の北西隅<ref>「愛善苑新発足の中心・熊野館」では「北西隅」、『第三次大本事件の真相』では「北側」、『大本七十年史』では「西側」</ref>には富士山をかたどった築山が造られた。また西北の隅には小池が掘られ鏡池<ref>『第三次大本事件の真相』では「鏡池」、『大本七十年史』では「富山池」とあるが、「愛善苑新発足の中心・熊野館」によると作業をした奉仕者の作田勇平と坂田三郎が富山出身のため王仁三郎はこの池を一時「富山池」と名付けたが、それは仮の名で、池が完成してからは「鏡池」と改名された。</ref>と命名された。この二つは[[富士と鳴戸]]になぞらえたもので、これを雛型として後に綾部に[[月山富士]]と[[金竜海]]が造られた。また築山には「[[みろく松]]」が植えられた。<ref name="daisanji_p46" /> <ref name="B195402c6432" /> <ref name="izutomizu_198502p35">『いづとみづ』昭和60年(1985年)2月号p35-38、出口和明「愛善苑新発足の中心・熊野館」</ref> <ref>『新月の光』0595「曲水の宴(聖師邸の富山池)」</ref>
昭和64年(1989年)、熊野館の西側に建設していた愛善苑会館が完成し、8月6日に完成祭が、11月6日に神素盞嗚大神の遷座祭が行われる。
平成22年(2010年)8月14日午後7時半頃、漏電と思われる出火により熊野館の母屋が焼失。王仁三郎が寝起きしていた「みろく亭」と「お蔵(土蔵)」は焼け残った。平成22年(2010年)8月14日午後7時半頃、漏電と思われる出火により熊野館の母屋が焼失。かつて王仁三郎が寝起きしていた「みろく亭」と、「お蔵(土蔵)」だけ焼け残った。
== その他 ==
<references/>
{{デフォルトソート:くまのやかた}}[[Category:大本の施設|くまのやかた]][[Category:秀逸な記事]]

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