本田親徳

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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本田親徳(ほんだ ちかあつ、1822~1889年)は、古神道家。霊学の分野で出口王仁三郎に大きな影響を与えた。

略歴

この略歴は鈴木重道・著『本田親徳研究』p541-545の「本田親徳先生略年譜」をもとにして作成した(特記あるものを除く)。年齢は満年齢。

  • 文政5年(1822年)1月13日、薩摩国の川辺郡加世田郷武田村(現在の鹿児島県南さつま市加世田武田)で、士族の本田主蔵(典医)の長男として生まれる。幼名は九郎。
  • 天保10年(1839年)17歳。皇史を読み、帰神の神法が廃絶したことを慨歎し、志を立てる。藩を出て武者修行し、京に上る。東下して水戸藩の会沢正志のもとで約3年学ぶ。和漢の学を始め哲学科学の基礎知識はこの時に学んだ。またこの間、平田篤胤の家に出入りした。
  • 天保14年(1843年)21歳。京都藩邸で、狐憑きの少女に会って憑霊現象を実見し、霊学研究の志を固める。
  • 安政3年(1856年)34歳。神懸に三十六法あることを覚る。
  • 文久3年(1863年)41歳。9月13日、長男・節が生まれる。
  • 慶応3年(1866年)45歳。この頃、帰神の正法を確立する。
  • 明治5年(1870年)50歳。父・主蔵が帰幽し、家督を相続する。
  • 明治9年(1876年)54歳。副島種臣邸にて帰神を修する。
  • 明治12年(1879年)57歳。3月15日、長女ミカ(薫子)が生まれる。妻はちか(知可子、28歳)
  • 同年6月、「難古事記巻一」了。
  • 明治13年(1880年)58歳。この年頃より、三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆地方で遊説する。
  • 明治15年(1882年)60歳。2月、鈴木広道(32歳)(鈴木重道の祖父)が入門する。
  • 明治16年(1883年)61歳。3月「道の大原」成る。[1]
  • 同年9月、「難古事記」第六巻成る。
  • 同年10月、「真道問答」成る。[1]
  • 明治17年(1884年)62歳。静岡県岡部町三輪(現在の藤枝市岡部町三輪)の「神(みわ)神社」に滞在する。
  • 明治18年(1885年)63歳。5月「産土百首」成る。
  • 同年春、長沢雄楯(27歳)が入門する。
  • 明治20年(1887年)65歳。春、静岡の浅間神社で幽斎を行う。宮司・三浦弘夫が立ち会い、長沢雄楯が質疑する。
  • 同年6月、「耶蘇教審判」を刊行。
  • 明治21年(1888年)66歳。神神社を去り、秩父に隠棲する。
  • 明治22年(1889年)67歳。4月9日、埼玉県の川越で急逝する。このとき妻ちかは38歳、ミカは10歳。
  • 明治29年(1896年)5月6日、東京にて妻ちかが帰幽(44歳)。

大本七十年史 上巻』「稲荷講社と本田親徳#」に本田親徳の略歴が書いてあるが、「本田親徳先生略年譜」記載の情報とほぼ同じである。

出口王仁三郎との関係

王仁三郎と本田親徳の邂逅

王仁三郎は明治21年(1888年)18歳の時に、老ノ坂の梨木峠(なしのきとうげ)で本田親徳と出会った。また出口直八木の辺りで本田親徳と出会っている。

本田は一八八八(明治二一)年ころ、世界の高天原発見の目的で諸国を遊歴し、丹後の元伊勢、比沼真奈比にも参拝し、綾部にも足跡を残したといわれているが、この年三月中旬、喜三郎と丹波の梨木峠で対面し、神道家として国のために尽くすように、とさとしたと伝えられる。また、船井郡鳥羽村八木嶋[2]の村はずれで開祖とも出会し、開祖の身上について話し、七人の女の中の随一であるといったという。
出典:『大本七十年史 上巻』「稲荷講社と本田親徳#

「王仁が本田親徳翁に会ったのは梨木峠である(明治二十一年、十八歳の折)」〔『新月の光』0643「本田親徳翁との初対面」〕

「女子が十八歳になりた春、丹波国大枝坂の梨の木峠で神界からの経綸で霊学中興の偉人、本田九郎親徳に途中に対面いたさせたのも、皆神の経綸の引合せで有りたぞよ」〔伊都能売神諭 大正7年12月26日#

王仁三郎が本田親徳と対面したのは、このとき一度だけのようである。

本田親徳の神霊

王仁三郎は明治30年(1897年)8月下旬、小幡神社に夜ひそかに参籠して神教を請いた。三七日の上がりに「異霊彦命(ことたまひこのみこと)」という神霊(本田親徳の神霊だということを後に知る)から、三条の学則(三大学則)を教えられた。

また明治31年(1898年)3月、高熊山修業中に、天帝の使神である異霊彦命から、己の使命を次のように伝えられた。

「汝よろしく吾言葉を聞くべし。そもそも現し世の状態は如何と思うぞ。真理は深く包まれて一点の光もなく、徳義は破れて人心は腐敗し、自由競争の悪習は最早頂点に達したり。このままに放任しおかんか、世界の滅亡を招くに至るべし。よりて神界より汝を卑しき農夫の家に降して、善く世の辛酸を嘗めしめ千辛万苦を与えて、世の救主と為さんとの神慮なり。汝は今まで為し来たりし事はみな天の為さしめ玉う所なり」(略)

「今や世界の文明は日に月に進歩する一方にある。いわゆる物質的文明の壮年時代である。(略)総て精神的神教的文明の相伴わざる物質的文明は、最も恐怖戦慄すべきものにして、決して謳歌すべきものにあらず。精神的文明の伴わざる物質的文明と、人類の徳義信仰とは両立すべきものにあらず。人類は不完全なる病的智能のみ発達するに従いて、人類の徳義と信仰とはおいおい浮薄となり、徳義と信仰のなきものがだんだん悪く利口になるほど、国家のため社会のために恐るべき事をなし、故に今に当たって精神的文明即ち惟神の大道を鼓吹して、全世界を覚醒するに非ずんば、国家も社会も維持すること難く、ついに世界の滅亡を招かんこと火を見るよりも明かならん」(略)

「よってこの世界を救済せしめんために、この大命を天より汝に降し賜うなり」
出典:「本教創世記」第三章#(『出口王仁三郎著作集 第一巻』収録)

巻物を授かる

王仁三郎は明治31年(1898年)4月、清水の長沢雄楯を訪ねた際に、本田親徳から長沢豊子(長沢雄楯の母)が預かっていた三巻の巻物を渡された。この時、本田親徳の神名が「異霊彦命」だということを聞かされた。

 長沢は講社の総理で神職を兼ね、国学者本田親徳のおしえをついで、幽斎や鎮魂帰神法をおこなっていた。喜三郎がはじめて総本部を訪ねた時、長沢は霊学の話や本田の来歴など詳しく喜三郎に語った。長沢の母豊子は「本田の遺言に、『十年後、丹波から一人の青年が訪ねてくるが、その者がくるとこの道は開ける』といったが、貴下が師の大志を継ぐ人に相違ない』といって、本田から授かった『神伝秘書』一巻と、『道の大原』『真道問答』各一巻を写本のまま授与した。喜三郎は、おしいただいて読んでみると、異霊彦命の神訓と同じもので、さらに詳しく神の本義があらわしてあった。奇異に感じ、本田の神名をたずねると、それは異霊彦命であるという。喜三郎は、本田の遺言で「丹波から」といわれた事情を了解して喜び、希望にもえた。
出典:『大本七十年史 上巻』「稲荷講社と本田親徳#

明治33年(1900年)7月20日の冠島参拝の際には、この巻物に書かれてある言霊を宣り上げ、暴風雨を静めた。

此巻物は本田親徳先生より、長沢豊子の手を通じて授けられたる無二の宝典である。片時も肌を離さず、危急存亡の場合、神のお許しあるまで、決して開くなとの教を確守し、今迄大切に肌の守りにしてゐたのであるが、今や一行の精霊を救はねばならぬ場合に当り、始めて開く玉手箱、何が記してあるかと、恐る恐る押頂き伏し拝み、披き見れば……

 尊きかも、畏きかも、救世の神法、霊学の大本と数十百に亘る神業、其大要は喜楽が高熊山の霊山にて見聞したる事実と符合し、神秘に属し、他言を許されぬもののみであつた。会長は此一巻に納めたる、神法を実行する時機正に到来したりと、天にも昇るが如く勇み立ち(略)と宣る言霊に、不思議や風やみ雨やみ波従つて静まりぬ。
出典:霊界物語第38巻第15章怒濤#

著作が『神霊界』に掲載される

王仁三郎は大本の機関誌『神霊界』大正8年(1919年)9月1日号を「道の大原号」と名付け、本田親徳の著作である「道の大原」と「真道問答」を掲載した。

主な著作

  • 鈴木重道・編『本田親徳全集』(全1巻)1976年、山雅房
    • 同上、1983年、八幡書店
    • 同上、2000年、八幡書店
  • 本田親徳・原著、横山信行・横山弘・共訳、大津晄・長峯正樹・編『難古事記 現代語訳』1991年、顕神本会 …難古事記は本田親徳全集に収録されている。

関連文献

  • 鈴木重道・著『本田親徳研究』1977年、山雅房
    • 鈴木重道・著『本田親徳研究 新装版』2000年、八幡書店
  • 佐藤卿彦・著『古法式鎮魂法・帰神術の神法』1964年、顕神本会 …本田親徳、長沢雄楯、稲葉大美津の教え
  • 佐藤卿彦・著『顕神本田霊学法典』1978年、山雅房
    • 佐藤卿彦・著、横山信行・改訂『顕神本田霊学法典 改訂版』1997年、顕神本会
  • 佐藤卿彦・著『顕神本田霊学幽斎記録篇』1981年、山雅房
  • 横山信行・著『本田霊学を学ぶ方に』1992年、顕神本会
  • 横山信行・著『本田霊学解説書』2016年、顕神本会

その他の資料

脚注

  1. 1.0 1.1 「道の大原」と「真道問答」は『神霊界』大正8年(1919年)9月1日号(道の大原号)に掲載されている。
  2. 旧・吉富村。現在の南丹市八木町の一部。

関連項目

外部リンク