「本宮山」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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(古代の本宮山)
 
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'''本宮山'''(ほんぐうやま)は、綾部の[[梅松苑]]内にある御神体山。標高92m(麓の標高は約50m)。「[[鶴山]]」「[[円山]]」「[[丸山]]」「[[桶伏山]]」とも呼ばれる。
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'''本宮山'''(ほんぐうやま)は、綾部の[[梅松苑]]内にある御神体山。標高92m(麓の標高は約50m)。「[[鶴山]]」「[[円山]]」「[[丸山]]」「[[桶伏山]]」「[[橄欖山]]」とも呼ばれる。
  
  

2020年1月15日 (水) 15:10時点における最新版

本宮山(ほんぐうやま)は、綾部の梅松苑内にある御神体山。標高92m(麓の標高は約50m)。「鶴山」「円山」「丸山」「桶伏山」「橄欖山」とも呼ばれる。


大本神業における本宮山

山の購入

明治期、本宮山は改森六左衛門が所有していたが、大正8年(1919年)2月25日、王仁三郎は改森から3万5千円で購入する。改森が九鬼家から購入した時は600円だったという。[1] [2]

本宮山神殿

山頂に神殿を建てるため、大正9年4月16日、地鎮祭を執行。建設が進むが、翌10年2月12日、大本事件が勃発する。しかしその後も建設が続けられ、7月27日、神示により本宮山神殿に御三体の大神の遷座祭(仮鎮座祭)が執行される(斎主は三代直日)。その後、当局から本宮山神殿の取り毀しを命じられ、10月20日から破壊工事が始められた。 →詳細は「本宮山神殿」を見よ

三基の碑石

大正12年(1923年)12月9日、本宮山に三基の碑石が引き上げられ、文字面を伏せて置かれた。昭和6年(1931年)9月8日、三基の碑石が建立されそれぞれ「神声碑」「教碑」「歌碑」と命名された。 →詳細は「本宮山の三基の碑石」を見よ

長生殿

昭和3年(1928年)11月13日、長生殿(ちょうせいでん)の地鎮祭が執行される。昭和6年8月22日には基礎工事が完成し、10年10月27日に斧始式が執り行われたが、完成せずに第二次大本事件を迎えた。 →詳細は「長生殿」を見よ

穹天閣

昭和4年(1929年)4月14日、穹天閣(きゅうてんかく)の地鎮祭が執行され、翌5年4月1日に完成した。この穹天閣は大本事件の際に破壊された本宮山神殿の材料を用いて建てられたもので、綾部における王仁三郎と二代教主の居館となった。 →詳細は「穹天閣」を見よ

月山富士

大戦後の昭和21年(1946年)、破壊された長生殿の基礎の上に、穹天閣などの破壊された礎石の石片などを寄せ集め、それに土を被せて「月山富士」が築かれた。 →詳細は「月山富士」を見よ

神声碑と教碑の再建

昭和27年(1952年)2月4日、神声碑が再建され、後に教碑も再建された。

禁足地になる

平成4年(1992年)2月3日、御神体山として、大本開教100年の節分を期し禁足地となる。[3] [4]

霊界物語における本宮山

初出:第2巻序#

霊界物語では自叙伝(第37巻第38巻)以外では、主に「桶伏山」という名で登場する。→「桶伏山」を見よ

  • 明治32年(1899年)10月15日、足立正信四方春三中村竹造の3人は言葉巧みに喜楽(上田喜三郎)を本宮山上に誘い出し、綾部からの退去を迫った。口を極めて嘲罵し、喜楽の堪忍袋が切れそうになった時、出口澄子が喜楽を迎えに本宮山に登って来たので喜楽は山を降りた。〔第38巻第8章三ツ巴#
  • 明治33年(1900年)10月、鞍馬山出修の後、ある夜に大風が吹いて広前の杉の樹がゴウゴウと唸った。後で教祖(出口直)が、鞍馬山の大僧正が来て本宮山に鎮まったと語った。〔第38巻第19章鞍馬山(二)#

大本神諭・伊都能売神諭における本宮山

本宮山に御宮を建て、三体の大神さまが御鎮りに御成なされたら、地の先祖が神嶋の(一名大八洲)御宮へ鎮りて、天のミロク様と地の先祖とが、末代の世を持ちて、治めて行かねば、外の神魂では末代の世は続いては行かん斯世で在るぞよ。
出典:大本神諭 大本神諭 大正6年旧10月16日#


大正八年三月八日、旧二月七日に、遠州から納まりた旭昇石は、昔の神代の折に五六七の大神様が地へ分霊を下だして、此世を陰から御守護遊ばしたのである、結構な天降石の神宝であるから、人民の自由に致す事の出来ぬ尊とき御神体であるぞよ。本宮山に御宮が建ちたら、御神体として御鎮まりなさるので在るぞよ。次に同じ日に東京から綾部へ参り、同月の十一日に大本へ納まりた白蛇の霊石は、富士山神霊の金神の分霊市杵島姫命の身魂であるから、是は竜神の御宮に鎮まり遊ばす御神体であるぞよ。本宮山の空に三体の大神様の御宮が立ちたら次の中段の所へ国常立之尊の宮を建て、坤の金神の御宮を阿奈太に建て、日出の神の宮をも立てて、天下泰平に世を治めたなれば、跡は七福神の楽遊びと成るぞよ。(略)丹福鄰県の綾部の本宮山の山中に、国常立之尊の一つ屋を建て、神の都と致すに付いて、弥々天地の守護神人民が尻曳き捲り、東奔西走の結果、旧正月二十五日に弥々大本の支配と成りたのも、昔から定まりた日限であるぞよ。(略)旧二月の十日いよいよ本宮山がカミの手続を終り、天晴れ神界の経綸の土台が出来上り、三月八日には遠州より旭昇石が納まりたのも、弥々神威発揚の瑞徴であるぞよ。
出典:伊都能売神諭 伊都能売神諭 大正8年3月12日#


本宮山の御宮が建ち了りたら、九鬼大隅守の深い因縁が判りて来て、艮の金神の経綸が判りて来るから
出典:伊都能売神諭 伊都能売神諭 大正8年7月12日#

古代の本宮山

以下は王仁三郎の教示 [1] [5] に基づくものであり、通説とは異なる場合がある。(括弧内の西暦年は通説による)

  • 太古は丹波は全部湖水であり、本宮山はその湖水の水面に頂上だけが出ていた。
  • 太古に素盞嗚尊が出雲から出て来た時に、本宮山上に母神・伊弉那美尊を祀り、熊野神社と名付けた。その後素盞嗚尊は紀州へ行き、熊野三社を祀った。
  • 本宮山の熊野神社は、九鬼家が伊勢の鳥羽から綾部に転封して来た時(1633年)[6]山麓の現在地に遷った。 →「熊野新宮神社(水無月神社)」を見よ
  • 平安時代、平重盛(1138~1179年)が本宮山に居を構えていた。以仁王(1151~1180年)が平家に対して挙兵したが流れ矢に当たって死んだ。重盛は皇室に忠義を尽くすのが至当であると考えていたが、以仁王が死んでしまい申し訳ないと思い、本宮山で自刃した。その重盛の霊を黒髪大明神としてお祀りしてあったが、その場所は山上の長生殿敷地の辺りであった。それを王仁三郎が東の方に移し「治総神社」として祀った。

伊勢外宮の最初の鎮座地

王仁三郎によると、本宮山には豊受大神が祭られていたが、後に比沼の真名井(現在の比沼麻奈為神社)へ、そして伊勢(現在の伊勢神宮外宮)に遷座した(あるいは本宮山から直接伊勢に遷座した)。→詳細は「比沼麻奈為神社#元の鎮座地は本宮山」を見よ

脚注

  1. 1.0 1.1 昭和』昭和10年11月号p28-32出口王仁三郎著「本宮山『鶴山』に就いて」
  2. 『大本七十年史 上巻』p441「綾部神苑の拡張と整備#
  3. まつのよ』第3号(1998年5月発行)p298
  4. 亀岡天恩郷の月宮宝座周辺は平成4年(1992年)12月8日に禁足地となる。『まつのよ』第5号(2000年8月発行)p276
  5. 水鏡「本宮山は平重盛の居城」#
  6. 綾部の初代藩主・九鬼隆季(くき たかすえ)は、鳥羽藩主・九鬼守隆(くき もりたか)の三男として生まれたが、父の死後、弟・久隆(ひさたか)との間に家督争いが生じた。幕府は久隆を鳥羽藩主とし、隆季は綾部に転封し寛永10年(1633年)綾部藩を立藩した。

外部リンク