「愛善歌集 瑞の光」の版間の差分

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(愛善歌)
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[[野村芳雄]]が作曲した愛善歌の初の発表は、王仁三郎在世中の昭和22年(1947年)8月27日(旧7月12日)[[瑞生祭]]<ref>王仁三郎の77歳(数え年)の誕生日であり「喜寿生誕祭」と名づけられたが王仁三郎の指示により「瑞生祭」に改められた。</ref>においてである。最初は「愛善讃美歌」と呼ばれた。
 
[[野村芳雄]]が作曲した愛善歌の初の発表は、王仁三郎在世中の昭和22年(1947年)8月27日(旧7月12日)[[瑞生祭]]<ref>王仁三郎の77歳(数え年)の誕生日であり「喜寿生誕祭」と名づけられたが王仁三郎の指示により「瑞生祭」に改められた。</ref>においてである。最初は「愛善讃美歌」と呼ばれた。
  
{{inyou|さきに苑主歌集として出版された「[[愛善の道 (歌集)|愛善の道]]」を広く一般に普及するため同志社高女教諭野村芳雄氏にその作曲方を依頼していた所<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c7225|芸術への精進}}」に、昭和22年(1947年)5月8日に開かれた献茶式の際に『愛善の道』の中から歌が選ばれたようなことが書いてある。「五月八日には本部道場の神前で、裏千家家元の千宗室により献茶式がおこなわれ、中野岩太の素謡・仕舞の奉納があった。来賓はじめ約四〇〇人が参列した。 同日、苑主の歌集『愛善の道』のなかからえらんだ歌を同志社高女教諭野村芳雄が作曲した。そして六曲の発表が本部青少年の合唱によっておこなわれた。」</ref>、今般それら美しいメロディのかずかずが完成され、廿七日午後二時より道場においてその発表会が催された、野村氏指揮の下に亀岡美珠会、本部奉仕青年編成のコーラス団が歌う瑞声、進展、黄金、憧憬、童歌、青年調の六曲<ref>6曲とも「瑞の光」に収録されている。</ref>はオルガン伴奏に乗つてゆるやかにスピーカーから流れ出た(以下省略)|『[[愛善苑 (機関誌)|愛善苑]]』昭和22年(1947年)瑞生祭記念特集号(9月15日発行)p8の4段目}}
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2022年3月23日 (水) 20:22時点における版

愛善歌集 瑞の光(あいぜんかしゅう みずのひかり)は、天声社の出版物。出口王仁三郎が作った宣伝歌や讃美歌を詞とし、メロディーを付けて混声合唱曲にした「愛善歌」の、詞と楽譜を掲載した本。作曲は全て野村芳雄[1](1914-2011年)。

次の2冊ある。

  • 『愛善歌集 瑞の光』昭和38年(1963年)発行、22曲、24頁 (OBN:1506
  • 『愛善歌集 続・瑞の光』平成10年(1998年)発行、16曲、42頁 (OBN:1507

また平成28年(2016年)に『愛善歌集 新・瑞の光』が天声社から発行された。これは、「瑞の光」「続・瑞の光」収録曲と、その発刊以降に発表された新曲、公募曲を合わせて一冊にまとめたものである。98頁。 (OBN:1555

愛善歌

野村芳雄が作曲した愛善歌の初の発表は、王仁三郎在世中の昭和22年(1947年)8月27日(旧7月12日)瑞生祭[2]においてである。最初は「愛善讃美歌」と呼ばれた。

さきに苑主歌集として出版された「愛善の道」を広く一般に普及するため同志社高女教諭野村芳雄氏にその作曲方を依頼していた所[3]、今般それら美しいメロディのかずかずが完成され、廿七日午後二時より道場においてその発表会が催された、野村氏指揮の下に亀岡美珠会、本部奉仕青年編成のコーラス団が歌う瑞声、進展、黄金、憧憬、童歌、青年調の六曲[4]はオルガン伴奏に乗つてゆるやかにスピーカーから流れ出た(以下省略)
出典:『愛善苑』昭和22年(1947年)瑞生祭記念特集号(第20・21合併号、9月15日発行)p8の4段目

外部リンク

脚注

  1. 野村芳雄は同志社女子中高の音楽教師。大本関係以外の作曲も多数ある。2011年7月7日帰幽。同志社同窓会
  2. 王仁三郎の77歳(数え年)の誕生日であり「喜寿生誕祭」と名づけられたが王仁三郎の指示により「瑞生祭」に改められた。
  3. 大本七十年史 下巻』「芸術への精進#」に、昭和22年(1947年)5月8日に開かれた献茶式の際に『愛善の道』の中から歌が選ばれたようなことが書いてある。「五月八日には本部道場の神前で、裏千家家元の千宗室により献茶式がおこなわれ、中野岩太の素謡・仕舞の奉納があった。来賓はじめ約四〇〇人が参列した。 同日、苑主の歌集『愛善の道』のなかからえらんだ歌を同志社高女教諭野村芳雄が作曲した。そして六曲の発表が本部青少年の合唱によっておこなわれた。」
  4. 6曲とも「瑞の光」に収録されている。