山本秀道

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山本秀道(やまもとしゅうどう)は、修験者・神官。大石凝真素美と共に天津金木を研鑽した。

次の略記は山本秀一「祖父秀道を記す」(『大石凝真素美全集 解説篇』p88に収録)を主な資料として作成した。

  • 文政10年2月16日(1827年3月13日)美濃国不破郡宮代村の鉄塔山正寿院で生まれる。幼名は小金部[1]。(宮代村は現在の垂井町宮代で、美濃国一宮の南宮大社がある)[2]
  • 父・正寿院秀詮の家督を継いで、正寿院秀道と称する。
  • 修験道を極めるが、明治3年6月、修験が廃止となり、以後は神官として奉仕する。近郷33ヶ村の氏神を預かる。
  • 宮代の古名である山本を姓にして山本秀助と改名する[1]
  • 護摩火焼の秘法を極め、難病の精神病の救護をなす。遠近より救助を求めて多数の人がやって来る。(「山本救護所」として加持祈祷による精神病治療を行っていた[1]
  • また、皇典を究めた。
  • 容姿がよく、馬術が長け、京都まで30里の道程を日帰りで行った。
  • 明治25年(1892年)5月、帰幽。66歳。

水谷清古事記大講 第六巻』p5-8に大石凝真素美の簡単な略記があり、そこで山本秀道について触れている。それによると、

  • 美濃の山本家は非常な旧家である。大日本史に美濃の豪族が天武天皇を使役し奉ったとあるが、その豪族とは山本家の遠祖であり、そのようにして天武天皇を密かに山本家に引き寄せ、古事記の本文を伝えたのだという。
  • 山本家には何代か前から、祭神の御神体として色が塗られた小さな長方形の柱が祭られていた。山本はそれが何か深い意義があると気がつき、大石凝と二人で研究に没頭した。三十年間苦心して研鑽した結果、その柱が大祓祝詞に出る天津金木であることが分かった。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 山本白鳥「大石凝翁ゆかりの地を訪ねて」(『大石凝真素美全集 解説篇』p76-87に収録)による。
  2. 水谷清古事記大講 第六巻』p6には、不破郡宮代村ではなく「不破郡山中村」とあるが誤記か? 山中村は宮代村から西へ7キロほど離れており、現在の関ケ原町山中。

関連項目

外部リンク