トーク:大正日日新聞社

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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大正日日新聞社の住所と社屋所在地について

大正日日新聞社の社屋。
大正8年(1919年)頃の梅田周辺の地図。中心に「北野角田町333ノ二」がある。
大正14年(1925年)に撮影された梅田駅(現・阪急うめだ本店)。写真の手前が南、右が東。右上に大正日日新聞社の社屋が見える。
大正12年(1923年)頃の梅田駅近辺(大阪市パノラマ地図)。右が南。阪急梅田駅の上(東)に大正日日新聞社の社屋とおぼしき建物が見える。

【問題点】大正日日新聞社の住所と、社屋所在地が一致しない。

  • 大正日日新聞社の住所は大阪市北野角田町(きたのかくだちょう)333番地である。多少の表記揺れはあり、神霊界誌の大正日日新聞の広告では「大阪市北区角田町三百三十三番地」、官報の公告[1]では「大阪市北区北野角田町三百三十三番地ノ二」と表記されている。
  • 大本大阪本苑八十年誌』p.49によると、大正13年(1924年)6月1日付で「北野角田町」から「北区角田町」に表示が変更になった。
  • 大正8年(1919年)頃の梅田周辺の地図を見ると、「333ノ二」は現在「阪急グランドビル」(32階建ての高層ビル)が建っている辺りになる。しかし当時はここは箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の所有地[2]で、梅田駅の施設の一部だったと思われる。(現在の阪急・梅田駅はJR線路の北側にあるが、昔はJR線路の南側の、現・阪急百貨店うめだ本店(大阪梅田ツインタワーズ・ノース)が建っているところに駅があった。1966年から1973年にかけて現在地への移転工事が行われた)
  • 大正14年(1925年)の梅田駅近辺の写真を見ると、現在「HEP NAVIO」(旧・ナビオ阪急)が建っている三角地帯の西辺に大正日日新聞社の社屋があったようである。大正8年(1919年)の地図と照らし合わせると、住所は「337ノ一」になる。
  • 大正12年(1923年)に作られた『大阪市パノラマ地図』を見ると(この地図は手書きのイラストなので細かい部分は正確ではない)、やはりその辺りに大正日日新聞社の社屋とおぼしき絵が書いてある。
  • 大本大阪本苑八十年誌』p.49[3])では、「333番地」という住所から、現在「HEP NAVIO」(旧・ナビオ阪急)が建っている場所だと推測している。(なぜ?「333番地」はその場所ではないのに)

外部リンク

脚注

  1. 官報 大正8年(1919年)10月20日 p.18 第2~3段 株式会社大正日日新聞社の商業登記変更(支店設立)の公告に住所記載あり。
  2. 明治44年(1911年)頃の地籍地図による。国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『大阪地籍地図 2 西・北区及接続町村之部』 PID:767489/1/283p.74、明治44年(1911年)、国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『大阪地籍地図 3 土地台帖之部』 PID:767490/1/615p.89、明治44年(1911年)
  3. 大本大阪本苑八十年誌』p.49:「大正日日新聞社の当時の住居表示番号より推して現阪急ナビオビル一帯に洋風館の二階建の広大な社屋があったものとみられる」